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「正直」とか「うそ」を「科学」する日本共産党

 

日本共産党系の学者が、日本共産党と関係の深い出版社から出版した『嘘の倫理』という書籍がある。読めばわかるが、共産主義者は、「嘘をつくのは良くないことだ」とは決して言わない。共産主義者は、道徳を否定しているからだ。第二次世界大戦後、小中学校から、道徳の授業が消えたのも、共産主義的な教職員の組合であった日教組のせいだ。『嘘の倫理』などの書籍にあるように、日本共産党は、現在の資本主義社会は、嘘をつかなければ生きていけない社会であると主張する。

 

『うその倫理学』 1997年 亀山 純生 大月書店

 

「嘘はなぜ悪いのか」の二重の論点

 

今見てきた社会倫理の「歴史的普遍性」という視点からすれば、過去のある歴史的社会の特殊な社会倫理において、「人間として嘘は悪い」という倫理があるからといって、それを超歴史的な人類の普遍倫理だと理解するなら、この倫理の形式と現実態を見誤ることになる。これは、私たちが日常的に倫理を考えたり、とくに日本文化の伝統を語るとき、ともすれば陥りやすいエアポケットだ。いわば、倫理の普遍的形式にだまされるわけである。

 

これまでみてきたような普遍的倫理の「歴史的普遍性」という観点からすると、特殊な社会倫理における現実態こそが「嘘がなぜ悪い」かを検討するメインの舞台である。というのも、ある倫理規範は、たとえ普遍的形式をもって表現され、またそれゆえ歴史的にどれほど伝統的ないし継続的であっても、問題の歴史的社会においてそれが存在しうる根拠がないなら、それはもはや社会倫理としては存在しえないからだ。忠君の倫理、男尊女卑の倫理などは、そうした典型例である。

 

したがって、倫理の「普遍性」とは、社会倫理が歴史的に変化していく過程での相対的な同一性、あるいは異なる社会倫理の共通性でしかない。この意味で「普遍的」倫理は「歴史的普遍性」をもつ。ただし、特殊な社会倫理は普遍的形式(表現)をもつことで倫理として機能しうるゆえに「歴史的普遍性」をもつのである。

 

このような倫理の「歴史的普遍性」の二つのポイントは、私たちが嘘はなぜ倫理的悪かを再検討する場合に不可欠な、二つの重要な論点を示してくれる。

 

第一は、嘘がなぜ悪いとされるかの歴史的根拠の検討である。現代社会において、どんな嘘がどんな意味で悪いとされるのか、あるいは誰にとって悪いとされるのか、など、その現代固有の形態を把握することである。そして、それが現代社会の構造とどう関連しているのかなど、社会的必然性を把握することである。

 

第二は、嘘がなぜ悪いのかについての普遍的根拠の検討である。先に検討した歴史的形態での「嘘が悪い」が、どのような論理ですべての人間に妥当する、少なくとも妥当しうるとして説明されるか、そして、すべての人間が受容しうるか、である。この論理が成立してはじめて、現代社会のすべての人間に拘束力をもつ倫理としての資格を得るのだ。さらには、異文化圏の倫理・異なる倫理観の人とも「嘘が悪い」という倫理を共有できる可能性をもつからだ。

 

嘘を必要とする現代社会

 

商品社会が要求する嘘

 

ウェーバーが分析したように、プロテスタンティズムの倫理をエートスとする資本主義の草創期ならば、たしかに嘘は商品社会形成の論理への背反だともいえよう。そこでは、ロビンソン・クルーソーの物語が描いているように、とくに中産階級の諸個人は、勤勉・誠実に振る舞い、まっとうな利潤の追求が各人の幸福達成と神の恩寵の兆しと信じて禁欲的に額に汗して働くのが基本的パターンだった。そして、シェークスピアの『ベニスの商人』が描く特権的貿易大商人のような、詐欺・裏切り・略奪・侵略など「尋常一様でない方法によって巨利・巨富を占めようとするあり方」は、反道徳的振る舞いとして否定されていた。

・・・(略)・・・

このような現代商品社会の論理のもとでは、嘘の是非もその効用性の観点からとらえられることになる。つまり、一方では先にみたように、商品社会の生命線である「信用」確保のために嘘の禁止が求められるが、他方では、それを犯さないかぎり嘘は容認され、場合によっては積極的に是認されることになる。このあたりの論理はすでにホッブズの議論が単純明快に示していたが、現代商品社会レベルにおいてもまったく同じだ。ホッブズではもっぱら個人レベルでの問題にしていたが、現代では企業が主体であることによって、ある意味では倫理性の視線すら希薄になって、嘘はいっそう大胆に闊歩しているとすらいえよう。

 

現代社会は、商品社会の論理ゆえに嘘を必然的に要求するのだ。

 

広告の嘘

 

なんといっても商品社会の論理が必要とする嘘の第一の典型は、広告の嘘であろう。現代商品社会はコマーシャルの時代であり、広告が企業活動にとって生命線である。広告は現代ウソ現象の一方の主役といっても過言ではないだろうが、そこには虚実入りまじり、消費者サイドからしばしば誇大広告、虚偽の表示、ウソの宣伝などと告発される事態が頻発している。

 

問題は、広告の嘘はかつてのガマの油売りのレベルではなく、圧倒的な情報量と巨大な組織力をもつ現代企業の消費者操作となっていることだ。シセラ・ボクが注目する嘘の威力という点では、大企業の嘘は、国家・官僚・行政機構の嘘とならんで双璧だ。これにくわえて、広告の嘘はどこまでも企業の利潤獲得の手段と化していることでその手口はいっそう複雑となり、問題性はいっそう深いのだ。

 

企業社会が必要とする嘘

 

現代社会が要求する嘘の第二は、第2章でみた組織の嘘の肥大化である。企業や組織が生理的にもつ嘘や秘密への傾向が、営利企業の目的・使命を貫く資本の自己増殖の論理によって、いっそう強固になっていることによる。粉飾決算、利潤隠し、企業秘密、製品開発や情報獲得をめぐるスパイ合戦もどきの欺きあい、汚職や非合法的活動の隠蔽・偽装など、例は枚挙にいとまがないが、その基本的構造と必然性は組織の嘘の生理として第2章で述べたのでここでは省略する。

 

第三はこれに関連して、企業に属する個人が必然的に嘘を強いられることである。これも第2章で組織の嘘のもう一面、組織人の宿命として述べたことだが、右と同じく資本の論理によって、さらにいっそう強固になっている。

 

くわえて日本の企業社会においては、企業が疑似共同体的性格を保持してきたことが、いっそう強力に企業人に嘘を強制する。会社のためには世間はもちろん、場合によっては家族や友人さえも欺くことを美徳とする少なくともやむなしとする傾向である。企業社会においては、正直モラル(「嘘が悪い」)はなによりもウチの世界への忠誠に求められるのであって、企業の外の世界における正直モラルはどうしても二次的になる。そしてそれは、伝統的な共同体倫理の形態で諸個人に意識されることによって、企業のための嘘はミウチをかばう嘘としてウェットに正当化される傾向がある。

 

さらに、官僚組織や他の一般の職場でもそうだが、会社・企業はそこに属する諸個人にとって生活手段(賃金)獲得の場であることによって、この嘘への強制はほとんど桎梏にちかい束縛となる。個人的信条はどうであれ、そこに属するかぎり、企業・会社の必要とする嘘の実行は絶対義務の様相を帯びるのだ。しばしば、組織・企業の虚偽や嘘にたいする内部告発が匿名によってなされるのはこのためだ。

 

第四に、以上のように企業社会が嘘を必然的に要求することは、間接的に現代社会一般に嘘を、少なくとも必要悪として容認する風潮を生む。このことは次節とも関連するが、ここでは商品社会における諸個人の行為の一方の特徴が戦略的行為とならざるをえない点にふれておくことにしたい。

 

 

・・・実は嘘であってもそれを自己の「真実」とみなされることを承認すればよいのである。問題は、そのような自他の欺瞞が恒常的に本来人間に耐えうるかどうかだが、そこに公理2であげた共同存在が必然的に関連してくる。・・・。共同性が人間の本質と位置づけられることで、現に共同のテーブルについているか否かを問わず、価値観・道徳の相違を超えてすべての人間がこれを不可避的に認め、共有しうる理論的可能性を保証した。嘘の倫理的悪さの普遍的根拠が人間の本質に関係づけられるということは、いってみれば、文化・価値観・道徳の異なるすべての人びとに、それぞれの立場を足場にしつつも自己の特殊性を超えて共同の普遍的理由を共有しようとの呼びかけでもある。

 

先に述べた疎外概念によれば、現実の社会や人間のあり方における矛盾や否定的な状態は、人間の本来のあり方(人間の本質・人間性)の欠如・喪失という視点から理解された。それゆえに現実社会とそこでの人間に対する批判と問題解決への行動が、本来性の回復という言い方でクリアな規範性と共感性をもちえた。だが問題は、かつての疎外の理解のように、そこで前提されている本来的人間が、文字通り過去の始原の人間とか、はじめに完全な人間ありきなどとして理解されると、実態的な人間の本質を前提しそれを絶対化してしまうという難点をもつことだ。

 

・・・だからこの人間の本質は、なによりも現実の諸個人の本質的受苦をとおして、その基本構造とその解決方向を照らすものとして発見されることになる。それゆえに、現実の歴史的社会の矛盾を介しつつ、かつ他の歴史的社会の問題解決の理念ともリンクする可能性をもつものとして意味があるといえる。

 

・・・第3の公理は、おわかりのように、弱者は無条件に対等な共同存在の一員であるべきだという点から出発している。この点も、たとえば欧米の生命倫理学のように、弱者(人間)が社会でどれほど有用かとか、そう認めることの社会的効用性いかんなどと、あるいは自然科学的にみて人間の本質に適合しているかどうか、人間の平等とはなにかなどと論証によって確定していく問題でないと考える。そうではなくロールズの『正義論』が不平等の格差是正原理を原初契約として無条件に仮定したように、端的に無条件に承認すべきである。その意義うんぬんはまずこれを承認したうえで具体化すべき問題だと思う。なぜなら、そうしないことには、つまり弱者への配慮義務を最初に前提できないで、現実の人間疎外の問題など解決できるはずがないからだ。そして、嘘=欺瞞によって人間としての可能性をより奪われ嘆き苦しんでいる人がいたら、それがたとえ幼い子どもやか弱き老人であったとしたら、やはり理屈ぬきに胸が痛むからだ。

 

・・・

 

この疎外された社会においては、私たちは嘘をつかずに生きることはできない。だが、そうであっても、せめてこの社会、この地球上の他者の悲しみと苦痛の声を聞き取れるほどには、人間と社会に関する共知と他の人間にたいする共苦の回路だけは確保しておきたいものだ。