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マルクスやレーニンを美化して、青年に虚像を教える日本共産党は許されない

 

日本共産党や左翼は、マルクスやレーニンを美化して青年たちに教えている。特に、マルクスを理想の父親として描いたりしている。許されないことである。真実は以下である。マルクスは不倫を実践していた。日本共産党寄りとも言われる岩波書店の出版する岩波新書『人間マルクス』にも出ている。この書はフランスのジャーナリスト、ピェール・デュラン(フランス共産党機関誌「ユマニテ」の寄稿家)の著作で、その中の「6 裏切られた愛」にマルクスが一家の「家政婦」ヘレーネ・デムートと肉体関係を結び、フリードリッヒ・デムートという一子をもうけたいきさつが描かれている。マルクスは、不倫の子を、親友のエンゲルスに彼の子として育てさせたとか、何人もの女性と不倫を行ったとか言われている。そもそもマルクスは、労働者ではなく、彼がもっとも批判するところに、寄生虫であった。

 

『人間マルクス -その愛の生涯-』 ピエール・デュラン著 岩波新書 より

(著者は、元フランス共産党の幹部です)

 

 

裏切られた愛 -ヘレーネ・デムート-

 

 

ヘレーネ・デムートは家政を取り仕切り、給金をもあきらめ、マルクスが朝の三時まで仕事をする部屋の中の粗末なベッドで寝る。彼女は子供たちにとって第二の母である。

 

 

マルクス一家と永い年月にわたって親交のあったヴィルヘルム・リープクネヒトは書いている。(ドイツ社会民主党の創立者の一人「1826-1900年」。彼の『マルクスの思い出』は1896年に公刊された。

 

 

「マルクスが家庭を持ってこのかた、レンヒェンは、マルクスの娘一人がいったように、「家の中心」となり、言葉の最も完全な、最も高い意味で、いっさいの仕事をやってのける補助者となっていた。彼女が頼まれない仕事があっただろうか? 彼女が喜んで果たさない仕事があっただろうか? (・・・・)しかも常に陽気で、常に手助けしようと待ち構え、常にほほえみを忘れない彼女であった。いや、彼女も腹を立てることがあった、そして彼女は「モール」の敵どもに対しては凶暴な憎悪を抱いていた。

 

 

マルクス夫人が病気のときや気分のすぐれないときには、レンヒェンが夫人の代わりをつとめた。それに彼女は子供たちにとって常に第二の母ではなかったか? 彼女は意志をめぐまれていた。強い、しっかりした意志をめぐまれていた。必要と思ったことは、実現させずにはおかなかった。

 

 

・・・・

 

 

何が起こっていたのか? 読者にも想像がつくであろう、最も大きな苦難の時期におけるマルクスの絶望、彼の精神的混乱とレンヒェンの-あの盲目的に献身的なたくましい百姓娘レンヒェンの-絶大な同情は、単に一時的だったマルクスの行動を説明してあまりある。マルクスはこのような行動をしでかした自分を決して赦さないことになるであろう。そしてこの行動は彼を苦しめた。その苦しみはエンゲルスへの手紙の数々にそれとなく示されている。

 

 

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ヘレーネが男の子を産んだ。エンゲルスはスキャンダルを避けるために、その子を自分の子として認知した。エンゲルスがそうした処置を採らなかったら、当時にあっては、スキャンダルは甚だしく、マルクスの上にだけでなく、彼の著作の上にまではね返ったであろう。ジェニーのカールとはこの事を口にすることは決してなかった。

 

 

日本共産党は、レーニンの犯罪を隠す

 

日本共産党は、ソ連の一党独裁を、ソ連共産党が望んだものではなく、初めは他の政党とともに連立政府を望んでいたが、他の政党がレーニンの率いるボルシェビキに反乱を企てたので、しかたがなく鎮圧せざるを得ず、結果的に一党独裁になっただけであると主張している。

 

Wikipediaのロシア革命の項にも、二月革命で帝政ロシアが崩壊した後の臨時政府は、共産主義や社会主義を掲げていない普通の政党(日本共産党に言わせればブルジョア政党)も入っていたし、十月革命後も、メンシェビキ、アナーキスト、社会革命党右派、左翼社会革命党などと協力していた。しかし、暴力をともなう権力争いによって、後にソ連共産党となるボルシェビキの独裁支配体制を確立したというのが事実である。

 

レーニンはロシア革命に成功すると直ちにKGBの前進である秘密警察、チェーカーを作った。チェーカーは裁判をすることなく「人民の敵」を次々に処刑した。1918年7月にはチェキストの数は特別部隊を勘定に入れずに2000人になった。同時期、内務省には400人しかいなかったのだから2000人とは巨大な数字である。さらにその数は、年末には約4万、1921年初めには28万人以上に増加した。

 

 有名なレーニンの虐殺事件にアストラハンの虐殺とクロンシュッタトの虐殺がある。どちらも、レーニンの政策に反対してストライキを行う労働者に対してレーニンが血の弾圧を加えたもので、前者では3千から5千人が、後者では2000人が裁判もなしに殺された。

 

 

レーニンは、1917年のロシア二月革命後、亡命先のスイスからロシアに帰国したが、それはロシアと戦争をしている敵国ドイツとの裏取引の結果であった。つまり、レーニンは祖国ロシアの裏切り者だったのであり、当然、革命政権樹立後、その件で政敵より裁判にかけられたが、途中で政敵が非合法となり消滅し、裁判も立ち消えとなった。

 

以下はネットのコトバンクから。1917年のロシア二月革命後、スイスにいたレーニンらロシアの亡命革命家たちが、敵国ドイツを通過してロシアに帰った列車のこと。レーニンらはドイツ領内通過中、列車から離れず、ドイツ市民と接触しないことを条件とされた。ドイツ政府は、ロシアの革命家の帰国がロシアとの戦争に有利に作用すると判断、レーニンらは帰国することがなによりも革命の利益となると考えたため合意が成立した。レーニン、ジノビエフらボリシェビキ(多数派)を中心とする32名の亡命者は同年4月9日スイスを出発。ドイツ、スウェーデン、フィンランドを経て、同月16日(露暦同3日)夜ペトログラード(現サンクト・ペテルブルグ)に到着。レーニンは翌日「四月テーゼ」を発表し、革命の進行に大きな影響を与えた。他方、メンシェビキ(少数派)のマルトフらは、ロシアにいるドイツ人捕虜とロシア亡命者との交換による帰国を追求したが成功せず、6月になって同様の方法で帰国した。[藤本和貴夫]